昭和51年05月10日 月次祭



   (出だし途中から)
 ・・・の信心は体験の宗教だという訳です。日々おかげの体験。おかげを日々確認して行く。そういう宗教なのです。それで生きた宗教とも、まあ言われる訳です。日々その有り難い、勿体無い、または相済まん事であったと言う様に、そういう充実した心の状態というものが頂けて行くのがお道の信心なんです。今日の研修の時に、研修しました事を先ほど、井上修行生がお話を致しておりました。
 親先生は、この世には難儀というものはないのだ、と言われると。所が僕達の目には矢張り難儀は難儀と感じる。同じ問題でありましても、私はおかげと感じ彼は難儀と感じる。難儀と感ずる所に苦しい様相という。おかげと感じる所に極楽の世界があります。そこで私どもが只今申しますように、日々の生きた体験を元にして、生き生きとした体験が土台となって信心が段々確立されて来る。信心の確立。ね、
 私は信心の確立とは、お道の信心を短く一言で言うならばです。ね、教祖様は難はみかげと仰せられる、言うなら難の正体をみかげと感ずる事だ。ね。そこで日々体験を致しておりませんと、それが難儀は難儀に見えて来るのであります。だから日々の体験こそが大事です。そこでなら日々を教えを元にしての生き方。例えば朝の御祈念に参拝をする。まあ30分なら30分のお話を頂いて、それぞれ頂きどころは違います。
 始めの頃は有り難い、中ほどは有り難い。いわゆる最後ん所が有り難かったと、色々でしょう。それは毎日ここで、信心の研修をしておる修行生の方達が致しますが、矢張りそれぞれの捕らえ所というものは、矢張り別々である。ね。だからその捕らえた所をです、今日一日の信心のいわば信心ではない、生活の支えとして行こうという、私は姿勢が非常にいると思う。言うならば教えを守って行くと言う事なんです。ね。
 ですからなら毎日お参りしなければならんかと言うと、そんな訳ではないのですね。その、頂いておる教えというものが、一つの生きる調子ともなりそれが、自分の生き姿の上に現れてくれば、それで良いのです。今朝の御理解を頂いて、善導寺の久保山のお母さんが、親先生今日の御理解を頂きよりまして、もういよいよ善人になる稽古をさせて頂く以外にはない。もうこれに徹する以外にはないと思いましたと。私は今日はそんな事は一つも言わなかった。
 言わなかったけれどもこの教えは、ちょうど大祭の前後から、若先生が神様から頂いた事を、後皆さんに聞いて頂いておるその事を、ね、今日の御理解の中から、ね、角度は違っておるけれども、結局煎じ詰めると、なら久保山のお母さんの心には、もうとにかく一切の事を良い方へ良い方へと頂いて行くと言う事が、善人だと神様は認めて下さるのですから。ね。もう一切の事を有り難い方へ、良い方へ良い方へと頂いて行く。もうこれに徹する以外はありませんとこう言う。
 だからこれが本当に徹する事が出来たら、毎日参って来なくても良い訳です。ね。その事に徹し抜いたら言うならば善人。実を言うたら有り難い事であることを、お礼では言わなければならない事をです、不平に言う不足に言う、不安に思う腹が立つ。そういうね、捕らえ方。そういうよい一つの事でもです、実際は良い事であっても、悪い方へ悪い方へと取って行く人間を悪人だと。これはもう極めた言葉です。
 だから悪人は必ず一遍はどこでか捕まえられて、窮屈な思い苦しい思いをしなければならない。これは神様のご覧になった世界である。ね。人間の世界では人の物を取った(   )。ね。人を殺したの殺めたのとこう言えば、もうそれが悪人ですけれども神様の世界では、神様が与えられた全ての事柄を有り難い方へ、良い方へ良い方へと頂いて行く人間を善人となさる。ね。その良い事であっても、それを悪い方へ悪い方へと頂いて行く、心配になる方へ心配になる方へと。
 取り越し苦労をして行くと言う様な生き方をです、悪人と決めておられる。だからもう先生、今日の御理解を頂いておりまして、もうここに極まったという思いが致します。いかに、その善人にそれ以来、本当に善人になる事に勤めておられるかと言う事を、今日私は感じました。ね、そういう例えば一つの生き方の上にです、矢張り誰にでも芯がなからなきゃいかん。その芯を愈々本当なものにして行く事が、信心の確立なんです。そこでならあらゆる角度から日々さらな。
 今日の発表の中にこの三番目の息子、幹三郎が発表しておりました。矢張り取次ぎ者としての立場で頂いてる訳ですね、お話を。そして彼が発表しております事の中に、ね、参って来る信者氏子にお取次ぎをさせて頂くと言う事は、そのお取次ぎをさせて頂くと言う事は、ね、参って来る信者に潤いを与える事だと言っております。そこで取次ぐ者自身が潤うておらなければ、潤うものは与えられない。こちらが乾燥しきっておって、そして潤うたものを与える事は出けない。
 ここのお広前には何とはなしにそういう雰囲気がある。お参りをしただけで、何か心配が無くなった様な気がする。そしてそれとは反対に心の中に有り難いものが湧いて来る。その有り難い心で御理解を頂く、ほんにそこじゃったそうじゃったと、有り難い思いを持って帰って行く事が出来るようなものが、この広前にありそれを取り次ぐ者がです、いわゆる潤いを与えるのは取り次ぎ者の役目であり、ね、また潤いを頂き受けて帰らなければならないのが皆さんだと言う事なんです。
 心が、ね、いわゆる無味乾燥と申しましょうかね。味気がない。そして自分はね本当にこうやって目が見えとると言う事だけでも有り難いとばってんね。こうやって手足が動いておると言う事だけでも、おかげ頂いておると言う事は分かっとるばってん、有り難くなれない。いわゆる味がないわけ無味なんです。無味しかも心は乾燥しておる訳です。その、無味乾燥の心に、いかに神様が降る様な喜びの種を蒔いて下さっても、喜びの芽を切るはずがない。喜びの花がもちろん咲かないのです。
 話を聞けば分かるのです。自分で生きとるとじゃない生かされて生きておるんだ。あれもおかげである、これもおかげである事は分かってるんだけれども、分かっておるだけじゃ駄目です。そのおかげと分かったら、おかげと感じる心が生き生きとしておらなければ、分かっておるというだけであって、頂いておると言う事にはならんのです。信心は頂く世界なんです。ね。いわゆる体験の世界なんです。ね。
 体験というのは今日はもうこういう思いもかけないおかげを頂いた、本当不思議なおかげになったと、その形の事だけじゃないです。自分の心の中にです、どうしてこの有り難い心がこの様に頂けておるだろうか、湧いて来るだろうかという体験が第一のおかげなんです。ならそういうおかげを頂いたから、そこにパッとおかげを頂けると言う事でもないですけれども、そういういわば、ね、喜びの種が蒔かれて喜びの芽がきられる。これはもう不思議な事ですけれども。
 ほんなら本気で一週間例えば合楽の朝参りなら朝参りをしてご覧なさい。どんなにこの頃から、あの子供を勘当するの、子供から勘当されたのと、もう大変な問題でお参りをして来ておる方があります。ね、もう本当にアンタの名前を雪子というその、冷たいアンタの顔ば見とると冷たい感じた。それで子供が出けそこなうはずだと。そんなら名前変えたなら良かろうかち言うんです。名前変えるというわけにいかんけん、まあせめて行って、その雪の感じ。ね。
 冷たい雪からひらがなで優しゅう、優しゅうゆきこという風に書いただけでん、ちった違おうち言うたら、その翌日からしたらゆきこと書いて来られた。もうそうですね、だいぶん、(      )から参って、朝の御祈念に参って見えます。すぐあの安東さんの所の近所らしいですから。先生あの方の人情、この表情が変わって行かれるのが感じられますと言うて、安東さんが言うておられます。
 本当です変わって来るです人相が。ね。さあ、人相が変わったから、もう息子がパッとおかげ頂くと言う事ではないのですけれども、ね、先ず自分の心がの中に喜びの芽が、こう芽をきっただけの事なんです。だからこれを育てると言う事が大事なんです。喜びの芽をきるけれども、それが一ヶ月二ヶ月続いておる内に、その折角の喜びの芽をまた、踏みにじる様な事になってしもうたりして、また枯れ果てた自分に返って行く人がどのくらい多いか分からない。
 信心辛抱というのはそう言う所をです、頂き抜かせて頂いてその喜びの芽に、また潤いを与える。そして葉が出た花が咲いたと、実が実る所までして行くと言う所に、真の信心生活がある訳です。ね。だから信心はそういう一つの育て、または育てられる所の楽しみがなからなければ、今まで分からなかった世界から、ね、本当の真実の世界が分かって来る。それを、肉眼を置いて心眼を開くと言う事になるのです。
 体験の宗教本当にこういう難儀な事があるだろうか。こういう馬鹿らしい話があるだろうか。さあそれでもそこを馬鹿になって行け、ね、そこを辛抱し抜いて行け。もう黙った治めて、黙って治めてという風に頂くもんですから、そういう修行をさせて頂いておる内にです、いやそれがおかげであったと言う事に気がつく。その事のおかげで私の心の中にこのような有り難い信心が育ったと言う事になる。ね、その有り難いという心に思いもかけないおかげが頂けて来るようになる。
 そういう体験が5回、10回、20回、10年、20年と続けられて行くならばです。もうそこには、ね、おかげの世界だけしかないんだと。難と思うておるのは難じゃない、神様が、氏子かわいい、より豊かにより美しゅう、より力を与えて下さろうとする働き以外の何者でもないと言う事が分かった時に、初めて信心が確立したのであり、ね、言うならば、肉眼の世界から、心眼の世界に入ったのであります。ね、難儀を難儀と見ておる間は、まあだ目が見えてない証拠です。
 だから目に見える人から、それはおかげじゃがと言われても、これがどうしておかげですかという事になって来る。ね、だから体験して行く以外にない、金光様の御信心は。その体験が生き生きとして頂け、生き生きとして現れて来る宗教なんです。ね。だから自分の心に、それこそ善導寺の久保山のお母さんじゃないですけれども、もう愈々ギリギリ善人になる事に精進して行く。一切を有り難いよい方へ良い方へと頂いて行く以外にはないですねと、思いまたは込んでおりましても、肉眼がある間はです、ね。
 そんなに思い込んでおる事だけれども、もうこれだけは有り難い方には取られないというような事に直面する訳です。ね、そこを矢張り御理解を頂かないと、またそこの峠が、というか、坂が越せない日々の有り難い勿体ない。又は相すいませんという体験の連続。ね、体験の宗教もし体験の宗教ではなくて、ただ詳しく分かって行くだけとするならばです、それは大変、金光様の御信心にはもとる事になります。いわゆる生きた宗教とは言えない事になります。
 それは仏教でもキリスト教でも、素晴らしいお話があります。ね。けれどもねそれが日々の、ね、生きた体験として生まれて来ないならばです、それはもう死んだ教えです。私は合楽にお参りをさせて頂いて一番有り難いのは、私が神様からお知らせを頂いて、そして私がそれを実行して、そして私が体験が日々出来て来る、その神様からのいうならば直伝、又はその教えを行ずる所から生まれて来る体験、そういうものが一つになって日々の御理解に現れておると言う事が、まあ値打ちだと思います。
 だからそれを頂いて、皆さんが日々の体験を積んでお出でられなければです、ね、合楽に通う値打ちがないと言う事になります。今日は皆さんに少しばかり聞いて頂いた事は、それを言うと、真の信心とは、真の信心にならせて頂く為にはと言う事を聞いて頂いたんです。ですから、その真の信心が内にある時には喜びとなり、その真の信心が外に現れて来る事を、信心の真を現すという事になるのです。
 昨日一昨日、久留米支部の御大祭でした。そすともう御信者さん方がもうそれこそ、一生懸命の思いで、あのお祭りが仕えられました。90何人のご参拝だった。それこそ昨日佐田さん、支部長さんがお礼に出て来てから、もう私はもうほんな事床が落ちりゃせんじゃろうかと思うたち。何トンになるそうです90人ですからね。おかげでまあ床も落ちんばかりの言うなら盛大なお祭りでした。それこそもう本当に真善美の世界とでも。これは、佐田さんが日々現しておられる。
 私はあまり素晴らしい調度品やら、または飾り付けが見事でしたから、御大祭のために、あのように綺麗になさったのかと思うて聞きました。そしたらいいえあれはもう本当にかえって片付けたぐらいであってから、日々があのような風にしてる。この頃もう本当に、あの一家中でお茶をけいこされとる。御主人はそれに謡(うたい)をなさる。一家を上げて信心のけいこをなさっておられる。そういう一つの信心と、そういうお茶の謡などの雰囲気がもう、本当に家の隅々にまで感じられる。
 同時にそれに神様の無限の働きというものがある。お屋敷のそこへ小さいおえんがあって、(椅子だん出しちゃる。ここに?)。置いてあるそこへこうやってあの座らせて頂いておりましたら、今はもう青葉若葉でもう庭が見事である。だから庭をこう横(に長く・・・?)。してその一番向こうの方へ、もうそれこそ見上げるばかりの大きな、いちょうの木がありました。それが何と隣の庭にあるのだげな。それが丁度私がこう座っておる、長い庭をこう眺めて、家の向こうのいわゆる借景です。
 丁度ここの庭の借景が耳納山であるように、その見上げるばかりの大きないちょうの木が、その庭の借景になっておる。ね、自分達の例えば教養とか、言うならば素晴らしい優雅な生活をしようと思うても、そこに隣の肥え(タゴ)が見えておったり、ね、そこに見苦しいものがあったりしたら、もうその雰囲気は崩れてしまうもん。ね、けれどもそういう例えば神様の何とも言えん。
 例えばあの自動車の駐車場なんかでも、先日から隣に大きな、(いわゆる?)駐車場が出けた。ある商社の。だからそこをどうぞいつも、毎月の会合が2回あります。2回の会合の時には、どうぞそこをお使い下さいという訳です。もう本当に見事だ。入り口の玄関の所からこうも、ずっと生垣がしてあるけれども、そりゃ隣の方の生垣をしてある。自分方の生垣のごたる。
 そういう神様のおかげと、自分達の商品とが一つにならなければ、素晴らしいものは生まれて参りません。ね、どんなに神様のおかげを頂いておっても、それを生かし現しきらなかったら、またつまりません。それはもう軸置物の一つ。ひとつの飾り付けの具合から。もう本当に合楽流とでも申しましょうか。しかもそれはお祭りするけんで、こうしたっちゃないいつもがそうであると言う事である。
 何とも言い様のないような一家円満というか、ね、優雅なしかもそれいわゆる真善美輝くような一つの見本のようなものが出けておっておると言う事である。ね。そういう中に御大祭が、まあ仕えられました。それこそ皆の信者さん方の一人ひとりの思いがです、ね、鯉は私がおかげ頂こう。果物は私がおかげ頂こう、と言う様な真心が溢れるばかりに御神前が美しゅうなる。言うならば飾り立てたという感じですけれども、それが人間心で飾り立てるのではなくて、真心一心を持って、いわば飾り立ててある所に。
 嫌が上にもお祭りが有り難いものになって来る。ね。人間心で飾り立てておると言う様な事ではいけません。〇〇教会の先生は信者さんの食料品屋から缶詰やら何やら買って来なさる。ほして大盛りにいっぱい出して、お祭りが済むとツーッと帰しに行きなさる。これは、ね、いかに賑やかに見えても、神様に通わない。ね、だから御大祭でもね。そういう一つの演出と言う事をなされなければならないが。
 お道で言う所の演出というのは、どこまでも、真が真心が溢れておる。言うならば信心の真がそこに、そのように現されると言う事が有り難い。自分の心の中に有り難いというものを感じ、今まで難儀と見ておったものがです、それが神愛だと感じれる有り難い心を、信心の真が内に養われてくる。その内なる真と、外に現すところの真とが一つになってです。信心すれば誰でもお徳が受けられるという信心とは、そういう信心を言うのだと、今朝の御理解に頂きました。